辰吉丈一郎がアマ時代一度だけ負けたエピソードをまとめました。
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ボクシング界の伝説・辰𠮷𠀋一郎が世界チャンピオンになる前に唯一喫した敗戦があった…その天才を大追跡!すると衝撃の事実が… さらに、辰𠮷本人が登場!その敗戦の裏にあった秘話をTV初告白。 スタジオが涙した感動ドラマとは
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辰吉といえばプロデビューから連続KO勝利を重ね、当時最速のデビュー8戦目で世界チャンピオンに上り詰め、3度の世界王者に輝いたボクシング界のレジェンド。
そんな辰吉が、アマチュア時代、唯一喫した黒星がある。当時、異例の15試合連続KO勝利を挙げていた辰吉だったが、16戦目となるソウル五輪の代表選考会を兼ねた全日本選手権1回戦でまさかの判定負け。
番組では、32年前に辰吉を破ったボクサーを取材し、実際の試合映像とともに当時を振り返る。すると、「(辰吉に)勝つには勝ったが、後味がすっきりしていない」と、勝利したことへのわだかまりがあることを吐露。
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その年の10月に全日本社会人選手権に出場。4戦してすべてKO勝ちを収め、17歳4カ月で大会を制した。相手には国体2位もいた。社会人、ボクシング部に所属していない大学生、高校生などアマのトップ選手が居並ぶ大会をわずか17歳の少年が制したことは話題となった。
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現実の世界では辰吉の思惑とは別のレールが敷かれようとしていた。
当時の大阪帝拳の吉井会長には夢があったのだ。
このジムからオリンピック代表選手を輩出したい、そしてメダリストが誕生すれば…、と。
吉井会長は、辰吉をオリンピック日本代表に育てようというプランを固めた。
オリンピックでメダルを狙い、プロに転向させるのはその後でいい。
ソウルオリンピックの代表選考を兼ねた全日本選手権大会。
大阪帝拳は辰吉をエントリーさせる。
しかし、当の辰吉は悩みの中にいた。
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父親を楽させてあげたい。
父親に家を買ってあげたい。
父親のためにも頑張るのだという思いが、これまでの辰吉を支えてきた。
いつまでもアマチュアで戦っていたくはない。
全日本選手権で勝ち続ければオリンピックに出場しなくてはならなくなる。
出たくない。でも、どうすればいいのか…。
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「負けてしまおうか」
この考えが頭から離れなくなった。
練習にも身が入らない。
そんな中、ある決意を固める。
選手権で優勝してオリンピックを辞退すればいい。
全日本選手権初日の朝。
この迷いが辰吉を狂わせたのだろうか。
体調が完全におかしくなっていた。
38℃の熱がある。
フラフラで歩くのもやっとの状態。
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全日本アマの初戦、大学生との試合は3回をほとんど棒立ちで判定になった。初めて黒星がついた。
当時は体調不良や膝の故障が原因だとされたが「勝ったらオリンピックに行かなあかんかった」という本音はある。プロになりたい。その一念。アマのリングで戦う気力はなかった。
1968年メキシコ五輪の銅メダルを最後に日本のアマボクシングは低迷していた。先代会長は「金を稼ぎたい」というまな弟子に「借金をさせてやる」とまで言ってアマ続行を強いた。しかし、丈一郎はかたくなだった。最後は「ジムをやめる」と言って飛び出した。
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ちなみに、フライ級は九州学院でのちに法政大学で辰吉ジョーシニアからアマ時代に唯一勝利を挙げる木下一哉さんがエントリー。当然のごとく優勝を飾りました。
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Hで始まる法政大学の選手
その人は。。。