2022年5月21日 古谷経衡が「シン・ウルトラマン」が話題になっています。それに関する情報、感想、画像などをまとめました
目次
ニューズウィークに寄稿いたしました→『シン・ウルトラマン』を見て的中した不安 newsweekjapan.jp/furuya/2022/05… #ニューズウィーク日本版 @Newsweek_JAPANより
— 古谷経衡@新刊『敗軍の名将-インパール・沖縄・特攻』 (幻冬舎新書) 重版御礼! (@aniotahosyu) May 18, 2022
つまり前編の評価が芳しくなく、後編の客足が鈍ってしまったのだ。この『進撃の巨人』実写版は、一部から『北京原人 Who are you?』(1997年)に並ぶ「アレ」な感じであるとの酷評もあった。脚本や俳優の活躍は良くとも、映画演出が極めて稚拙な場合、こういった評価点をも帳消しにする「ハプニング」は稀に見られる。
結論を言うと、本作『シン・ウルトラマン』は、『進撃の巨人』実写版に付きまとった、脚本や俳優の活躍を帳消しにする目立った映画的演出の致命的瑕疵は無く、原作『ウルトラマン』(1966-67年)に対して馴染みの薄いユーザーでも、概ね楽しめることができるようになっている。勿論、往年の『ウルトラマン』に愛着のあるユーザーならば、「そうきたか」「リスペクトが凄い」と唸らせる描写が全編にわたって頻出し、原作の素晴らしさを令和的にトレースしたという点においては、ウルトラマンのファンであればあるほど、何度も楽しめるという利点を持っているといえる。
引用元:news.yahoo.co.jp(引用元へはこちらから)
念には念を入れて近所の映画館で再確認したがやっぱモロそうじゃねえか古谷経衡の大ウソツキ野郎!
— インクエッジ (@02Curry) May 20, 2022
まさかそんなとこでそんな自信満々に大ウソ吹かす奴が出てくるとは思ってないから、観た記憶があっても意識的に捉えてはいないことは改めてちゃんと再確認しないと強くは言えないからな。こないだはやんわり言ったが古谷経衡が文句のマトにしてる二点ともがはっきりウソっぱちだったわやっぱ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
「禍特対本部がどこにあるか俯瞰で映さない」
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
→ウソ。空撮3秒くらいのカットで映してます。
「支払いの手段をいっさい映さない」
→ウソ。現金を数えるカットで映してます。
まったく酷い記事だ。
『シン・ウルトラマン』を見て的中した不安(ニューズウィーク日本版)
news.yahoo.co.jp/articles/b2c87…
ひとつめ、禍特対本部の場所。空撮俯瞰のカメラが映してるのはこの図の中央付近。この場所をなんて言うかというと…
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
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0:41からの台詞を聞いてくれよ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
「予告にもあるのになんでわかんねんだよ!」てすぐ言いたいところだったが「予告にある映像は必ず本編にある」とは限らないからな。既に初日に映画を観て聞いていても念を入れて再確認してから強く抗議しようとしたんでこんなに遅くなった。
youtube.com/watch?v=2XK23K…
「霞が関」というのは官庁の俗称でもあるけれど、空撮は律儀に物理地名としての「霞が関」を焦点にしてる。こんだけ狭いエリア内にあるということがわかってんだから、原作ウルトラマンの科特隊基地―ぼんやり「東京郊外」とだけ設定されてる―よりもはるかに「どこ」かは明瞭だ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
>また特別に別個の建築物を有するのか
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
専従5、6人しかいない組織でなんでビル丸ごと占有してると思うんだろう?
ふたつめ支払い手段。空耳でなかったことを確かめてきたぞ。財布を見るだけでなく札入れを開き、札を数える「ペラッ」「ペラッ」ってSEまで添えられてる。どちらも自分が数秒の映像だけの描写を見落としておきながら、さも些細な無言の表現さえあれば僕は目敏く拾いますよみたいなツラしてんだコイツ…
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
オレでもこの超強気の記事読んだら自分の記憶を100%の鉄板で信用できなくなっちゃったもん。まぁ95%か90%か、とにかく「絶対に」オレの記憶の方が正しいとまで言い切れなくなる。なので、自分を信じつつも念のために再確認してからいま文句を言ってる。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
記事を読んで「えっそうだったっけ?」て気付いたヒトでも、なにぶん映画はそう簡単に再確認できないからな。でもって「時事の」映画評は公開中こそ関心が寄せられるがすぐに映画そのものが忘れられちまう。数か月後、映像メディアが出回るときにはもうファクトチェックなんて誰もしようとしないから。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
どんだけテキトー吹かしても読者がホイホイ鵜呑みにしてくれ、使い捨てですぐ逃げ切れる…時事の映画評ってのはほんとユルくてチョロい「遊び」…映画に抱いた快・不快レベルのボンヤリとした感情を発散でき虚栄心を満たせる遊びもいともかんたんに成立できてしまう、かなり危険なカテゴリなんよ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
しかしまぁ件のトンデモ記事、てんで的外れながらもそこから「話者が本当に不満に思っていたこと」は推測して引き出せる。シン・ウルトラマンでは移動にまつわるシーンが極小である…そこはじっさいそうなんだけど、それを「位置関係把握のためにあるものがない」と自己分析したのが「外れ」なんだわ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
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そうじゃねえんだ。この子が不満だと感じたのはおそらく「移動という行為や光景を用いた、芝居そのもの」の方だと思うわ。庵野氏直近前公開作「シン・エヴァンゲリオン」でいうなら冒頭、第3村への徒歩移動のくだり。あんなんで起点=前作ラストの場所と終点=第3村の位置関係がわかるわけねえだろw
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
「ロードムービーパート」とでも言うか。一緒にメシ食ったり一緒に戦ったりすんのと同様「一緒に移動する」シチュエーションにもそれ独特の関係描写や、物語世界・劇空間世界の”空気”の提示がある。「移動描写がない→から位置関係がわかりづらい→から不満だ」の自己分析三段論法はまずただの錯覚だ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
こないだ反例として挙げたシンエヴァメインの南極決戦の位置提示・移動描写のユルさだって「位置関係把握のための視点であればユルい」んであって、メンバー各々が決戦に臨む心境を分かち合う「旅の道中の芝居」はいったいどこ飛んでるかわからないヴンダーの「艦内」でしっかりあるでしょう?
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
ロードムービーそのものだって「旅程の距離感覚や位置関係がわかるから面白い・わからないからつまらない」てモンじゃない。道中様々起こる出来事に遭遇していくなかで旅人の為人や関係性が描写され、それが構築・変質していくさまを楽しむジャンルでしょう。旅は二点間の移動に非ず、道中そのもの。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
ところでオレもさすがに初回鑑賞前にパンフやデザインワークスを開封しちゃうヒトでないので、観てから読んでキスシーンが「撮られていたが、編集でカットされた」ことを知った(こういうウラ話には「やっぱりそうか。観ててそうだと思ったよ」ってすぐ虚栄心のフカシを入れるタイプの子もいる…)。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
それを承知のうえで観てみると、ああ二回目の出撃前のシーンだったんだなと。シモ手の神永の両肩にカミ手の浅見が手を置くカットがある。その直後のカットはとつぜん俯瞰のアングルになりその体勢の両者を小さく映してる。この2カットの中間に存在してたんだな…。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
アップ真横の両手置きからそのまま浅見が顔を寄せてキスになって、唇が離れると俯瞰に移行。そういうカット進行は、すごくありがちなキスシーンの組み方だからな。ありがちなカット進行とはいえシーンとしておかしいものではなくて、その前段からの繋がりを考慮して敢行カットが抜かされたんでしょう。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
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これ単ページ完結で台詞(/ナレ/擬音)なしというだけでなく、均等コマ割りで視点位置固定の進行、内容がアメコミパロディかつ唯一描写されてる文字が缶の横文字=横書き文化右開きを連想する要因があり、「こういうのは誤認しますよ」ってサンプルとして故意につくられた感さえある偶然の漫画ですわ
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
ちなみに「禍特対本部よりもはるかに位置が不明瞭だった原作ウルトラマン科特隊基地」はこういう図示(透明パネルの裏側からのカットなので左右反転した)はあります。ブロック分けの起点になってる中央の赤点が科特隊基地ならば練馬区南西あたり、東京にもうひとつだけある赤点がそうなら立川市南端。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
ああ、「ブロック分けの起点になってる中央の赤点」の方が科特隊基地だ。流星マークひとつで示してあるのが確認できるカットがあった。ぶっちゃけこんなこと作品にとってどうでもいいことなのでマジ今はじめて調べながら書いてる。ホントこんなことわかってなくても鑑賞に何の障害にもならんよ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
原作第一話のウルトラマン邂逅・ベムラーとの初戦の舞台「竜ヶ森」がどこにあるかというと、ハヤタからの初報を聞きながらアラシがマークした群馬県邑楽郡あたりですね。これは左右反転させてないです。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
ホント心底「そんなことがわかろうがわからまいがウルトラマン視聴にはいっさい影響がない」。ハヤタ機ロストを受けて科特隊が本部から出撃するが、ビートル発進してカミ手からシモ手にカメラの前を横切るカットひとつの次は、もう竜ヶ森現地の森の中から「今の爆発音はなんだ?」ってわらわら現れる。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
「位置関係の提示を欠いていたからよくわからず、そのせいでつまらなかった」なんてのは100%自己分析の失敗ですよ。シン・ウルトラマンでなく原作ウルトラマンこそが記事中で文句をつけてる内容のオンパレードで、しかしそんなことが作品鑑賞の足を引っ張ったりなんかカケラもしてなかったんだからよ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
ミニチュアやセットでなく科特隊基地の情景が映されるのは最終回だが、これは鎌倉でロケしたらしいね。それ以前のエピソードで別の架空の建物としても使用されたそうだ。60年代の映像を後追いで観たって既知のランドマークでない限り光景で理解できないし、そもそも関東の土地勘がなければ通用しない。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
「時空間を明瞭にすること」はそもそも絶対的な良手なんかじゃない。曖昧にしないと劇が成立しないケース、情報提示を絞ることで不安感やミスリードを誘うケースなど「基本中の基本」というがまさに「基本でしかないもの」であり応用として逆らい得るべきものなんだ。シン・ウルトラマン冒頭は前者だ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
作戦立案を担当する神永が、第一発見者だからって自ら救出に赴くこと自体にはななだしい非合理があり、その非合理さをわざわざ高めるような位置関係の明確化なんかしてたらそっちの方がはっきり「ヘタ」なんだわ。ゆるっと曖昧でないと成立しない。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
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「見つけたからちょっと行ってくる」てノリが通用する近さでないといけないし、近すぎると本隊も大被害を被るしかなくなる。発見場所が集落だからカメラが要救出者を見つけられ、被災場所が山中だから誰にも認識されずに済む。脚本どおり展開が成立しつつ位置・移動行程を明確に…できるわけないだろ!
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
繰り返すが「見つけたからちょっと行ってくる」てノリが通用すること自体がむちゃくちゃユルいんだよ。神永が退席した直後にも作戦立案が手詰まりで班長・田村が頭抱えてるんだから、物理救出なんて後ろに山ほど詰めてる訓練された実働部隊の誰かに任せ、神永は自分の仕事に専心するのがあたりまえだ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
庵野氏による脚本、メインプロットの根幹じたいが非合理すぎるんで、それを遵守してコンテを切り撮影する樋口氏にはどうしようもねえんだよ。あまりに一方的に庵野アゲ樋口サゲのすこぶる感情的な結論ありきで作文しようとしてしまうから、てんで的外れな文句しか言えないんだ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
オレもシン・ウルトラマンには様々問題点があると思うが、「優れた庵野氏の優れた脚本をヘタクソな樋口氏がヘタクソに撮ったから」なんていうアホ丸出し感情丸出しのちゃちい陰謀論とは考えがぜんぜん違う。「脚本→撮影→編集が完全ウォーターフォールで制作されたから」だと。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
樋口氏は舞台挨拶にて「脚本と寸分違わない」とまでわざわざ言い切り、パンフでも尻叩きは脚本にすでにあったと述べている。映画作品にあっては脚本なんかたかが中間成果物でしかないのに、いちいち「庵野氏の脚本どおりに撮りました」をアピールするんだよな…。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
いっぽう庵野氏は最終的に編集を担い、撮影現場にほとんど出向かず「編集室にこもって」編集作業を行った。脚本→撮影→編集はシーケンシャルな工程だけど、想定したように撮れないことが撮影段階ではじめて判明して再検討することもあり、本来「脚本と寸分違わず」なんてのが美点になるはずがない。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
編集工程は編集で撮影素材からしか編集できず、他人に任せたありものを自分のセンスになるべく合うようつぎはぎした結果、「セオリーに沿った映像の進行から一部分が抜けたようなカットの繋ぎ」になったりする。twitter.com/02Curry/status…
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
「多岐にわたり介在し決定する総監修者が据えられているが、他の仕事で忙しいから一部分(そして当人にとって最も肝心なこだわる部分)だけ他人に任せる」ていう制作体制そのものが幾つもの問題を抱える理由であって、こんなん誰が撮ろうがなるべくしてなるものよ。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
我々は映画を観て「脚本が」「撮影が」と認識してるけど、正確にいえば樋口氏のいう「”脚本”と寸分違わない」内容にはなってねえんだよ。キスシーンは「脚本に書いてある」のに「庵野氏自身が編集で斬り捨てた部分」なんだから。「映画に何かの描写がなかった」は「脚本になかった」とイコールでない。
— インクエッジ (@02Curry) May 21, 2022
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