川尻征司ってどんな人物?~調査してみた~
みなさん、川尻征司という人物ご存知でしょうか。
このページでは事業家であり、様々なことにも挑戦している川尻征司について調査しまとめてみました。
どうぞ、お目を通していただければ幸いです!
それでは、調査スタート!!
川尻征司(川㞍征司)とはどんな人物?
川尻征司は1983年に芦屋市で生まれたとのこと。彼の家系は理容師であり、祖父や父がその職業に携わっていたとのことです。川尻氏はまじめな性格であり、父の姿を見てお客様のことを365日考えるような働き方を学んで育ちこれが今の経験に生きているととあるインタビューにもありました。
川尻誠司は日本で美容師として働いた後、フィリピンに渡り、そこでも美容師として活動しました。
その後は東南アジア地域で不動産事業や金融事業を展開し、小児医療に対する支援活動も継続的に行っているとのことで、深掘りもしていきたいと思います。
また、最近ではエンターテイメント分野や宇宙分野の企業への投資活動にも取り組んでおり、教育を受けられない人々への支援にも力を注いでいる川尻征司。このバイタリティはいったいどこからやってくるのでしょうか!
川尻征司の考え
「日本を少しでも明るくしたい。
世界の一人でも多くの人を救いたい。
投資家、事業家としてそれに貢献していきたい」
「医療や教育に関しての支援。
エンターテイメントの発展。
それに対して何ができるか?を考え実行していく」
この2つが川尻征司が考えていること…
これを実現させていく力があるのが凄いですね。
川尻征司の少年時代
川尻征司は少年の時代、サッカーに明け暮れていたそう。
サッカーで、特待生で高校に入って、どこまでがサッカー選手になろうという考えのもと少年時代を過ごした川尻征司。
チームのプロ試験も受けたことがあるが靭帯を痛めてしまって挫折。
部活をやっていた当時からプロ意識が高く、キャプテンを務めたり、その中で勝ち負けにはこだわるタイプだったそうなので、自分の立場上、彼らのモチベーションがどうやったら上がるのかは常に意識して、チームワークをとっていたといいます。
子ども時代から自分の軸もある川尻征司。
キャプテンを務めるだけあってそのカリスマ性は幼き頃から輝いていたのかもしれません。
川尻征司の美容師時代
サッカーで挫折した川尻征司。次は何をしようかと模索の日々…。
アルバイトも行いましたが、親に相談してみると「手に職だよ」と言われている時代だったので、なるならないは別にして、美容師という資格さえ持っていれば、何かあっても飯は食っていけるだろう、という気持ちの中美容師を目指します。
通信制の美容師専門学校に通い、母に紹介された店に就職。
修行ではないけれど、本当に職人として熱心に働く父親の背中を見て美容師の厳しさもわかっている川尻征司は
見習いというかたちから美容師人生をスタートさせました。
川尻征司の人生を変えた女性オーナー
川尻征司の人生を大きく変えた女性オーナーが居るとのこと。
大阪の靱本町といって靱公園の近くにある美容室が、「やったらやった分だけ成果がある」みたいな書き方をしていて、
気になるなと思って面接を申し込んで行ったとのこと。今思えば結構ターニングポイントになっていたと川尻征司は話しています。
当時 60 歳だった女性とそこで出会い、その方が美容室は5階建ての建物の2階に入っていて、1階でその女性の方がブティックを経営されていたそう。3階はくつろげる間みたいになっていて、4階、5階にその女性が住まれていて、1棟ビルになっている2階の美容室で美容師を募集。
タイムリーに店長が辞めてしまって、「美容室を今閉めているんだけど、あんたやらないか」と言われた川尻征司は「ちょうど自分のステージにも合っているし、やらせてください」と言って、やることになったそう。
そこは本当にバリバリの美容室で、1人でやるのは広いぐらいでしたが、1人雇ったりして2人で仕事をしていたそう。
そうしているうちに、その女性オーナーと仲良くなって、いろいろご飯に連れて行ってもらったり、「3階で疲れたら泊まっていっていいよ」みたいな親戚のような仲に。
川尻征司の人間性が語られるエピソードですね。
その後、女性オーナーの取り組みに関心を持つように
段々と川尻征司は、どうやってこの人はビルを持ったんだろうというところに興味が行って、
「このビル、おばあちゃんのですよね」と聞いたら、「そうだよ」「どうやってこれ、手に入れたんですか」のような話をしたとのことです。
その女性オーナーはいろんなビジネスをやって成功して、そういうビルを何棟か実は大阪に持っていたんです。
その女性オーナーに「美容師で髪切るのもいいけど、経営でお金をもうけていくというやり方もあるんだよ」と教わったんです。
「あなたはどっちか言うと、美容師というよりは経営者として成功していくほうが合っているんじゃないか」と、その人に初めて人生で言われたのです。
これが川尻征司の人生を変える話でした。
海外で勝負することを決意した川尻征司
色々な出来事がかさなり、ハサミ1本と少ない資金を手にフィリピンに渡ることを決意した川尻征司。
日本が美容室で混み合っていて、海外に渡ることを決意したとのことです。
公式インタビューによると「ロンドンとかニューヨークとかオーストラリアとか、ちょっとかっこいい、おしゃれなと ころをイメージすると思いますが、そこに行っても多分カオスだろうなと思ったんです。なので、僕が面白いかなと思ったのは、日本の美容師さんに切ってもらいたいと思ってい る人が多い国に僕が行くと、これは仕事になるんじゃないか。ないところにあるものなので、求められているところにやりたいものがあると、やりたいニーズはあるという単純な発想 で、インドネシアとフィリピンに行きたいと思って、僕はインドネシアに行っていろいろ 見学して、次にフィリピンに行って、そこでビビッと来て、フィリピンだなとなってフィリピンに移住することを決めた。」
と記載があるように川尻征司は常にインスピレーションを働させていることが伺えますね。
フィリピンの不動産ビジネスに着目した川尻征司
物価の安さから美容師から不動産に目を付けた川尻征司。
迷いの中で、フィリピンの不動産ビジネスに着目したとのことです。
川尻征司は不動産を見るのがもともと好きだったとのこと。現地にあるプレビルド、プレセーリングという不動産の物件を売っている会社が当時はあって、プレセールというのは何もない土地だけデベロッパーが抑えていて、そこに有名なデザイナーやブランドが、「4年ぐらいかけてここにコンドミニアムを建てますよ」と言って、そのショールームと将来こんなものが建つという映像を流して売っているという手法があったそうで、その先売り不動産ビジネスに着目し川尻征司はコンテンツを作っていったそうです。
小児医療へ寄付など活動を広げる川尻征司
それからというものの、川尻征司は様々な事業展開を行って行きます。
例えばフィリピンの小児医療に力を入れているのもキッカケが。
公式インタビューによるとこんな記事が…
「
僕の初めて生まれた子どもが水頭症という病気だったんです。その子が亡くなったのをきっかけで。日本ではそういう病気はないんですけど、原因不明なんですね。何が悪くてそうなったというよりは、何かの遺伝子の関係間違いでそういうことになると聞いています。
自分の息子が運悪くそういう病気を抱えて生まれてきちゃって、結果的に3年ぐらいで亡くなってしまった。非常にショックでした。涙も枯れるぐらいに泣きました。
この悲しみを抱えて、何かできないかなと考えたんです。お陰様で自分はフィリピンで事業をさせてもらっている、それでお金も得ることができました。少しでもそれを子供たちにを考えたんです。そういう子どもの病気を持った子たちがフィリピンにも一定数いて、そういう施設に対して毎年、自分の収益の一部を寄付しているんです。それで川尻ファンデーション(寄付団体)というのがフィリピンにもあって、そういう寄付団体みたいなことをやるのがきっかけで、各病院とか施設みたいなところとつながっていったのがあります。」
とのことです。
一見キラキラとしたところしかわかりませんでしたが、川尻征司はこの葛藤を貢献という方面に
視点を変えていけ、今の寄付団体の活動に繋がっているのでしょうね。
川尻ファンデーションについて
川尻征司が学長を務める国際ビジネス大学校について
~最後に調査報告~